羽生結弦選手による、スケーターとしては史上初の東京ドーム公演「ギフト」を鑑賞しました。会場は超満員、整然とドラマの幕開けを待つ姿は、さすがに道徳意識の高い結弦ファンです。大歓声の中で登場した羽生選手が、過去の大会での思い出の衣装に次々と着替えてスケーティングをしていきます。演目の合間は、大きなスクリーンに羽生選手の過去の姿が、技術の粋を凝らした映像で浮かび上がります。そして、羽生選手本人の録音声が自分の歩いてきた道、心の葛藤を赤裸々に語っていきます。私たちにその思いをぶつけ、問いかけてきます。哲学的な構成と、合間にスケーティングする羽生選手の姿に、不思議な心持でした。スケートリンク上には、整氷時間の際のスタッフを除いて、羽生選手がただ一人最後まで君臨し続けました。
エンディングの晴明の舞いを終えると、会場内は最高潮。と思う間もなく、実はここからが見せ場でした。羽生選手がその日初めてマイクを持ち、今の心境と会場の皆さんへの感謝を述べ、ギフトの意味を明かします。
ギフトとは、羽生選手から私たちへではなく、彼が皆からもらったものそのものであったというのです。そして、羽生選手が涙を拭って、唐突に滑り出しました。その速さは今までで最高とも思える凄いものでした。羽生選手が心を全力で開いた瞬間と感じる最高の感動のシーンでした。
最後に、皆を一瞬ソフトに制した後、マイクを外し、肉声で「どうもありがとうございました。」と声を振り絞って、深々とお辞儀をして感謝を述べた羽生選手、羽生選手から演奏者、スタッフ、会場にいたすべての人々がギフトをもらったのではないのかというのが、結論としての思いです。
令和5年2月26日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤
北京オリンピック男子フィギュアスケート、フリーで羽生結弦選手が史上初めて4回転アクセルを跳び、公式認定されました。転倒したものの、競技後の彼の誇り高く清々しい姿に、世界中から感動の波が押し寄せました。
オリンピック2連覇の後、次のオリンピックで4回転アクセルを跳ぶと公言し、遂にそれを成し遂げたことは過去の金メダルの取得と比べ何ら遜色はありません。実をいうと、個人的には、仮に4回転アクセルをせず、3連覇したより遙かに重要な出来事であったと思っています。
話は変わりますが、私は以前から、「自分にとっては無駄だと思うことを積極的にすべきである」と言い続けています。物的事象について合理的に考えることは論を俟ちませんが、人に対する心の有り様は全く異なるものと考えています。
人間関係において、合理的な思考で相手と向き合うことは決して望ましいことではなく、主観的には非合理と思うことをする方が、相手にとっては嬉しいこと、助かることが数多くあります。それは、「思いやり」という言葉で表すことが出来ます。日々、それを実践できるかというと大変難しい課題なわけですが、「無駄なことをする」という具体的な指針を持つことで、自身が慣らされている合理的思考を遠ざけることが出来ます。そこで、私は敢えて無駄をしようと思うことにしています。また、無駄なことをすると、不思議に心も解放されることも多いようです。
さて、羽生選手の4回転アクセルは、私が思うには大変非合理な挑戦であったと思います。彼の技術・能力をもってすれば、4回転アクセル無しでもオリンピックでメダルを取ることは確実であり、リスクのある転倒も避けられたことでしょう。そもそも、4回転アクセルに挑み続けた練習においても、おそらく桁違いの転倒を続けてきたことでしょう。自らの体を痛めつけ、失敗の虚しさを積み重ねて、4回転アクセルの体得に向った日々は合理性とは対極にあったと推察します。
むろん、そうした現場には立ち会えない私たちですが、競技の中の一挙手一投足を見て、そうした場を乗り越えて来た人だけが持つ静かで荘厳な雰囲気を感じたのは、私だけではないと思います。
非合理に挑み続けた温もりある一人の人間の姿に触れて私たちは、誰かに勝って金メダルをとった人よりも、自分自身の生き方を貫いた羽生選手を真の勝者として受けとめてしまうのではないでしょうか。
震災後11年になろうという今なお、多くの人々が真の復興に向け、厳しい日々を送っておられます。様々な場面での合理的な物事の進め方に苦しむことも少なくありません。羽生選手が非合理に挑み、見事にまっとうした姿を見て、誰もが明日に立ち向かう勇気を得たと確信しています。
羽生結弦選手、本当にありがとう。あなたの3度目のオリンピックは、間違いなく今までで最高の感動と生きる勇気を私たちに与えてくれました。
令和4年2月21日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤
過去に何度か、節目と言うべき震災後10年の時には、被災地の復興はどのようになっているのだろうかと漠然と考えることがありました。今、その時を迎えて無数の評価があると思います。しかし、復興の是非を検証したとしても、それは現在の立ち位置から見たものに過ぎず、それをもってこの10年のその時々の判断が正しかったかどうかを正確になぞることは出来ないように思えます。少なくとも、私自身は復興支援を続けてきたことに達成感などほとんどないのが事実であり、それが何故かと掘り下げてみることの意味も感じません。
私は、公益活動に自己実現という考えは、あまりなじまないものであると思っています。今、何を考えるべきかと言えば、明日に向って自分たちの理念を貫いていくことしかありません。幸いなことに、私たちは10年間中断することなく活動を続けて参りました。それによって多くの方々と出会い、様々な絆をつくることができました。このかけがえのない財産を胸に、これからも明日に向かって出来ることを一歩ずつ紡いでいくことが、私たちの使命であると信じています。
震災後10年を前に、羽生結弦選手に協力していただき「10年明日へ」という言葉を掲げたポスターを制作致しました。すべての皆様が明日を信じ、お互いを思いやる心を持って生きていって欲しいという願いを込めました。震災を知らない小学生への啓発を考え、被災地すべての小学校への掲示を提案しました。今、多くの小学校からポスター掲示の便りが届いています。
最近の震災の報道に接し、とてもうれしいことが1つあります。震災を体験した少年・少女が社会人になって、それぞれの抱負を話している姿は、日本中のどの地域の若者より凛々しく輝いて見えるのです。大きな苦難を経験し、それを自らの成長の糧に変えたのであろう“気”を強く発散しているのです。これこそ、人間の人間たる証であり、新たな進化に向けた一歩なのではないでしょうか。
彼らがこれからの日本を引っ張っていく大きな力になっていくことを確信しました。彼らこそ、震災を経た日本の確かな復興を示す姿であると思います。そして、直接には震災の記憶のない小学生たちも、震災のこと、そして自分たちが生活する地域の人々との絆を心に持ち続けてくれることで、また10年後大きな花が開くのではないでしょうか。それこそが、私たちの最上の喜びです。
令和3年3月10日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤
全日本選手権で、羽生結弦選手が圧倒的な成績で優勝しました。4位以下と力の差が際立ったトップ3の中でも次元のちがう得点を出した演技は、言葉にできないような完成度でした。
フリープログラムではまた新たな風景を見せてくれました。静謐な佇まいから始まった演技は、場内に澄み切った緊張感を醸し出しました。一つ一つの動きは、本当に丁寧であり、自身の世界を大切に築き上げていくように感じられました。「見ていただいた方の背景に訴えかけたい」という哲学的なメッセージは、私たち一人一人が今置かれている状況に勇気を与えてくれるだけなく、あるべき生き方を示す言葉として受けとめました。
今の日本社会は、相互扶助の具体的活動や思いやりの心を持ち続けていくことが非常に難しくなっています。コロナ禍の不安定な毎日は、一層人々のコミュニケーションに影を落としており、小さなことでの諍いも日に日に増加しているように思います。そうした背景を持っている私たちに、どう生きていくべきかを真剣に考えていかなければならないということを演技で明確に示してくれました。羽生選手、本当にありがとう。
震災からまもなく10年を迎えようとしています。誰かのことを思いやる心を、私たちは何よりも大切に持ち続けていかなければなりません。
令和2年12月29日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤
被災地は震災から9年後の春を迎えます。今年は、コロナウイルスの蔓延で、あの年以来の非常事態を感じる3月になってしまいました。
ところで、不特定多数の人々の公益を考え続ける身として、今回のコロナウイルス問題で心配していることがあります。日本におけるコロナウイルスの検査体制が極めて脆弱な現在、散発的な感染者の発生に応じ、その感染者が立ち寄った施設などは徹底的に除染され休業も余儀なくされています。それは、当然必要なことではあるのですが、どれだけ隠れた感染者がいるのか分からなくなっている現状で、感染が見つかるとそこだけが強く危険地域としてクローズアップされることに異和感を感じます。
感染者が出た施設、更にその地域は、特別な場所として注目されることで経済活動においても大きなダメージを受けます。こうしたことに遭遇した方々が今後どのような補償を受けられるのか全く分かりません。施設を運営する企業が立ちいかなくなった時、そこで従事する人々の生活にも重大なリスクが生じます。これについて政府が目配りしてくれるのだろうか大変心配です。
また、全国的に外出が激減する中で、3月の繁忙期を迎えた飲食店やイベント会社は大幅な売上減少が予測されます。その多くが零細企業であるだけに、1カ月の収入減が事業の存続にも直結し倒産を余儀なくされることも充分考えられます。経営者のみならず、そこで雇用されている方々は一瞬にして明日からの生活の糧を失ってしまうのです。ようやく正常な事業活動を始めた被災地の飲食業者は、内部留保も少なく資金的にも不安定な所が多数あります。こうした方々を直撃する外出自粛、会食中止の連鎖は経営に深刻な打撃を与えていくでしょう。公益的な観点から弱者への救済措置が公平になされるのか私たちは、政策をしっかり見守っていかねばなりません。
そもそも今回の事態の主因は、感染者が生じた場合のリスクについて何ら具体的な検証もせず、政府が安易に海外からの入国を認め続けたことにあります。初期段階で政府が最優先に国民全体の幸福のためにどうすべきかを具体的に講じることが求められていたわけです。結果的に、感染者の検査もままならず、感染者の発生に伴なう2次災害を放置してきた今までの政府の対応を鑑みると、公益を担うという責任意識を持つことの重要性を改めて感じてしまいます。
私たちは、今の日本の厳しい状況をしっかり見つめ、改めて気を引き締めて公益を担う責任意識を忘れることなく、被災地支援活動に向き合っていかなければなりません。
令和2年3月6日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤
東日本大震災から8年が経ちました。復興支援という合言葉で、日本中の人々が被災地のことを想う繋がりの形は力強く育ちました。それは、全国規模の災害が頻繁に起きるようになった最近の日本の環境と無縁ともいえないかもしれませんが、今後も気候変動による災害が予断できる状況にない中で、様々な人々の繋がりが深まったことは助け合いの観点から大きな前進です。
私たちは、震災を機に公益社団法人東日本大震災雇用・教育・健康支援機構を設立し、東北を中心に様々な支援活動を行って参りました。昨年からは東日本大震災の記憶の風化を防ぐこと、そして、新たに発生した被災地の支援も行うことを方針として掲げ、活動を進めています。
誰もが、自らに起きるかもしれない災害の恐ろしさを忘れずに被災地のことを想う環境づくりを推進します。誰もが、誰かのことを思いやることが出来るように、その心を育んでいけるような活動をして参ります。
これからも、東日本大震災のことを決して忘れず、被災地の支援活動に取り組みます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
平成31年3月11日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中 潤

平成30年9月12日、13日の両日、岡山県倉敷市真備町と小田郡矢掛町を訪問しました。以下、何人かの方からの水害直後の聞き取りと現状の報告です。なお、聞き取りは町中で支援に従事しているなど信頼できる方々からのものですが、こちらの聞き取りにおいて誤りなどがあることは否めないことをご了承ください。
【被害の状況】
豪雨による小田川の決壊で真備町の市街地はほとんど水没し、海のようになり、最も被害の大きいところでは2階家屋をすべて飲み込まれるという状態となりました。小学校2校、中学校2校、高校1校も浸水して、現在も生徒は他の学校で勉強されています。
中心地の箭田・有井が特に被害が甚大で、現在住民は避難所・みなし住宅・町外等に分かれ、生活しており、夜は町中から人がいなくなります。
避難所に登録することで義援金(1人40万円)は行政から支給されており、食料物資も定期的に配給されているようです。但し、登録せずに、自宅の2階に残っている人など支援を受けていない人もいる模様です。建物は、断熱材に泥が入り、修理しても建替えしても同程度の費用(いずれも2,000万円)が掛かる見込みとのことで、今そのことが住民にとって最大の課題となっています。
真備支所近くのボランティアセンターには、ボランティアの方が集まり、そこで指示を受けて、家々の掃除を中心に活動に行かれています。
真備町は一戸建てが多く、それらが全壊という状況です。現在、避難所は3ヵ所で約220人の方が避難生活を送っており、最も大きい岡田小学校体育館には110人の方がおられました。他に薗に40人、二万に70人います。更に、近くの真備荘という介護施設に介護の必要な40人の方がおられます。避難所では保健の専門家が毎日被災者の健康管理をされています。避難されている方々ですが、学生はスクールバスで町外の別の学校に通い、大人は個々に職場に行かれたり、自宅の清掃をされています。
避難所は当初2,000人もの人がこの体育館に詰め込まれ、冷房もなく、10日間はごろ寝という状況だったとのことです。また、近隣の総社市でアルミ工場の爆発もあり、体育館のガラスが何枚も割れるなど突発的な事故も続いたとのことです。
避難所の生活ですが、朝6時に起床。梅・昆布・鮭などおにぎり3個が支給され、昼は菓子パン・調理パンの2個が、夜は弁当が支給されます。他に避難所にいない方にも弁当を配っているとのことです。今は缶詰が少し付くこともあるようですが、民間からの食料支援は少ないとのことです。
おにぎり・パンは2カ月間全く同じ繰り返しであり、弁当も衛生上の見地から冷たくしたものがふるまわれるとのことで、食の不満はかなり大きくなっています。町内の飲食店も壊滅し、厨房もないので、炊き出しなども出来ないようです。開いているのはコンビニだけです。農業の方も機械がやられたことで多くの滞りがあるようです。避難所はシャワーのみで、風呂は1日2回バスで銭湯へ行きます。
今回の水害は、今年の秋から元々小田川の工事をする予定だった矢先に起きたとのことで、20年かけて工事の予定だったところを、今回の事態で向う5年で行うとのことです。
明治26年高梁川決壊、昭和47年小田川決壊と過去にも水害はあり、ハザードマップなどでかなり注意はしていたようですが、今回の規模は桁外れのものだったようです。夫婦だけの家はもう建て直し(再建)しないで、復興住宅に入ることも多いのではとの見通しのようです。市長は今避難している人が戻ってこられるように、現地で復興活動している人には頑張って欲しいと言っているそうです。
真備は岡田・箭田・薗・二万・呉妹・服部・川辺の7地区があり、それぞれ町づくり推進協議会を作っており、岡田の会長である黒瀬正典様にお忙しい中、いろいろお話を伺いました。明日は天皇陛下をお迎えするとのことです。
市街地を廻ると確かに一戸建ての新築家屋が全く人気のない中で整然と並んでいます。多くの家が1、2階とも窓を全開し、中の物は整理されているようでガランドウとなっています。駐車場の車は一面泥を被ったままものもありました。夕暮れ、小田川の広い土手の上の道からこの住宅街を見ると、どの家も暗い口を開けているようで、異様な感じを受けました。家が全く無くなった津波の被災地、閉じまりした家屋が続いた原発被災地とは人気のないことは共通するもののまた違った違和感、つまり、水害の恐ろしさを改めて感じました。
流れる川を見るとなんとのどかなと思われる美しい光景です。あんなにも下(高さ10m以上はあるでしょうか)を地味に流れている川が町を呑み込むなんて誰が予想するでしょうか。今回、最も強い衝撃を受けた時間です。
その日は、隣町の矢掛町に宿を取りましたが、この辺りは全く水害はありませんでした。過去に川が決壊した経験から早めに排水をするということが功を奏したようで、5m〜6mの高さの土手は残り70cmで治まったそうです。しかし、小田駅の付近の川は決壊し、その地域にある中川小学校は市内7校の内唯一浸水し、生徒は現在も他の学校に通っています。ただ、避難所に避難している人はいないとのことで、町民の生活は安寧が保たれたようです。
水害直後は一部店舗など浸水したところもあり、ボランティアの方も来られましたが、車に置いていた貴重品が盗まれるなど盗難が度々起きたとのことでした。
矢掛町は田が多く、水が早く引いたということも新興住宅地の真備と比べ、被害が少ない要因とのことでした。そして、小田川が決壊し、先に真備に流れたため矢掛町には来なかったことも大きかったようです。中川小学校は小田川のすぐ横にありますが、やはり今見ればあんなに低いところを流れている川が小学校の1階を丸々飲み込んだということは驚きしかありません。
児童の一時的な移動先の川面小学校に小田校長先生を尋ね、お話を伺いました。水害直後、校舎は大人の胸の高さ、体育館は背の高さまで水が入り、什器・備品・消耗品はすべて災害ゴミとなりました。細菌の蔓延も危惧され、すべて捨てました。8月10日までボランティアの方々が清掃をしてくれました。その1カ月はとにかく大変で、血圧もかなり高くなられようです。
被災を受けたのは中川小学校だけであり、まだプレハブも建てられない状況であり、(真備町は9月末に完成予定)児童の学力補償が懸念されます。3学期までに元の形に戻ることができるか、備品等の対処が間に合うかなども心配です。
今、スクールバスで生徒の送迎をしていますが、乗り降りなどのケアーを教職員が行っており、勤務負担は確実に増えています。また、土日など時間外勤務も多くなりましたが、給与補償も出来ない状況です。町では、教育支援員・事務員・教師アシスタントなどを増員で対処してくれていますが、全体的に町としても人手がいないことが心配です。被災した生徒の家は床下・床上合計5軒ほどあり、アパートを借りるなどされています。児童の心理状態も水害により受けた不安感・恐怖感がまだ継続している子も一定数いるとのことで、今後のケアーが大切と認識されています。
その後矢掛町の役場を訪ねたところ、全く静かなもので、来場者もほとんどおらず、昨日訪ねた真備町の役場での相談者で混雑している状況とは雲泥の差という感でした。災害被害の紙一重の重さを改めて感じました。
再び、真備の町に戻り、復興支援拠点の真備公民館岡田分館を訪ねるとボランティアセンターにもなっており、多くの方が業務をされていました。水や消耗品など物資の無償提供も行っており、ボランティア派遣のピースボート様は月曜日と木曜日には食料の提供もされているとのことでした。例えば、温かいご飯とみそ汁、漬物100人前が30分でなくなるなど、需要に追いつかないとのことで、毎日のパンの配給、時々の弁当の配給も沢山の人が並ぶことも多いようです。物資の配給をマネージメントする町づくり推進協議会の方々も、如何に公平にたくさんの方に上手に配るかいつも頭を悩ませておられます。
隣の地区の川辺は、町づくり協議会の幹部の方が被災してうまく機能できていない面もあり、そのサポートもしていきたいとのことでした。地域の中で、民間の方々の思いやりとエネルギーの強さを話に聞くにつけ、頼もしく感じました。
私たちは微力ではありますが、私たちの理念である「今必要なところに迅速な支援をお届けする」という思いを強く心に刻んで、真備町を後にしました。
平成30年9月16日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤
東日本大震災から7年が過ぎました。この災害に対する記憶は、年々薄らいでいます。直接被害を受けていない地域の人々にとって日々の生活の中での風景は、震災によって何も変わっておらず、主に情報の中で知った被災地の姿は情報が減るにしたがって忘れていくのは仕方のないことです。一方、被災地でも震災を体験していない子供たちがいつのまにか主流になってきています。
人の記憶の始まりを4才〜5才とすれば、今の小学生のほとんどは震災の記憶がないのです。震災の恐ろしさとそのための備えの大切さ、そして、被災した方への思いやりを日本中の人々が意識し、考えていくことが大切な時期を迎えていると強く感じています。少しでも多くの人々にその気持ちを呼び起こすことが、今私たちの出来る復興支援活動の一つの在り方だと思います。
今回作成したポスターは、平成23年弊機構の設立以来復興支援のシンボルとして協力いただいている羽生結弦選手に、その呼び掛けの顔としての役割を担ってもらっています。「東日本大震災を忘れない」ということをシンプルに伝えることで、震災があったことを人々の記憶の中に長く留めてもらいたいと思います。
今年、日本中の人たちを感動させた羽生選手の記憶と共に、羽生選手が常に念じている被災地の方々を元気づける行動を少しでも多くの人がとってくれることを祈念します。また、今回、作成するポスターは被災地の小学校に無償で配布します。直接体験をしていなくても、震災後被災地で育つ子供たちは、様々な思いがあるはずです。自分の周りの人たちが体験した東日本大震災という事実を、真直ぐに受けとめるアンテナを持ち続けてもらえればと思います。
平成30年5月30日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤
6月に大槌町の仮設廻りをした際に、今迄も度々お会いしている70代後半で一人暮らしの女性Mさんと、1時間ほど立ち話をしました。息子さんは公務員で別の地域で暮らしており、ご本人は仮設住宅に住みながら、軒先で細々と小売業をしています。一日に何人かの人が買い物に来、いろいろなお話もしていくようです。
今回初めて震災の時の話などもされましたが、ほとんどMさんが話し手でした。津波の恐ろしさ、損害保険を震災直前に解約していたため住宅再建に大きな負担を抱えていること、津波で流された自宅のあった場所とは遠く離れた所で空っぽの金庫が見つかったことなど、一つ一つ身につまされるお話でした。更には、つい1週間前に家の前で育てていた花の咲いているプランターが盗難にあったとのことで、やるせない思いのたけを伺いました。
それでも元気に毎日を送っていることが言葉の端々から浮かび上がってきて、温かい気持ちになりました。自宅再建や資金繰りの相談など「私でお力になれることがあれば」と、継続的に連絡を取り合うことを約束してお別れしました。
私たちのコミュニティー活動は、こちらから"見守りをする"という向き合い方だけでは、ご本人から自然にご連絡いただくことはとても難しいようです。良いことだからといってスムーズにコミュニケーションを作っていけるというわけにはいかないのです。少しずつ時間をかけて、一人暮らしの方とのパイプを築いていきたいと思います。
平成28年7月23日
公益社団法人 東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤
企業は社会貢献をするべきである、という考え方は当たり前のこととされているが、現実には利益追求をすることで利害関係者の欲求を満たすことが最優先である以上、無駄なことにお金を使うことは出来ない、と考えている経営者は多い。課税庁も同じ考え方から抜け出せず、広告宣伝費という名目では巨額な垂れ流し経費の損金性を認める一方で、公益活動を行なうために使われる寄付金は基本的に損金として認めていない。つまり、寄付をすることを事業としては認めていないのである。
巨額な内部留保利益を有する日本の大企業の思い切ったお金の使い方、すなわち、投資においてはこの概念を打ち破ることが非常に重要である。ただ寄付をしましょう、ということではない。公益活動にお金を使うことを、事業と結びつけて考えていきましょう、ということである。これは利益最優先でなく、リスクは高くても公益性のある事業には、赤字覚悟で積極的に投資をしていくことを意味する。そして、事業なのだから当然使われたお金は損金として、収益から控除出来る。こうした形での事業を、これからの被災地の復興のために行なって欲しいのである。
その多くが過疎の町である被災地への投資は、事業としての採算性は乏しい。しかし、大きな企業が一定の予算を設けて事業参加すれば、それだけで地元に大いなる元気を生む。そして、事業が軌道に乗れば、地域が活性化するだけでなく、投資した企業も一定の利益を獲得する可能性がある。仮に、具体的な数字上の利益は上げられなくても社内意識の向上をもたらすと共に、公益事業を行なっていることで社会貢献を成し遂げられる。下らないテレビ番組のスポンサーになってお金を浪費するより、よほど有益な広告宣伝にもなるのではなかろうか。
海外ではソーシャルインパクトという概念が普及してきているようだ。投資家たちの間で資金の運用先として、公益事業への投資が活発化しているのである。税金対策とは別の次元で、こうした事業への参加が進んでいるのは注目すべき点である。日本の企業の場合、こうした投資は損金性に繋がることで所得の合理的な活用という面でも大きなメリットがある。多額の利益を計上している企業は、是非、この取り組みに参加し、被災地に元気を与えて欲しいのである。
平成28年7月20日
公益社団法人 東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤