善悪を超越する無駄の大切さ

人は日常の意志決定において、自分や他人の行為について様々な形で善悪の判断をします。特に、他人の行動に対しては自身の不利益になることも多いので、「悪」と考える事柄は無数にあります。但し、そのほとんどは些細な事なので、相手にそれを質す間もなく時の経過とともに忘れてしまいます。一方で、国と国、或いは民族間で生じる善悪の判断の相互対立は、時として大きく膨れ上がり、最終的には戦闘に結びつくことがあります。

昨今、世界の各所で起きている事態を見ても、第3者の立場では、なぜそこまで対立するのか、そして、どちらが善なのか判らないことも多いような気がします。特に、宗教対立においては当事者は互いに自己を善として、異教徒に対しては、ただそれだけで悪と見なしてしまうことも多いのではないでしょうか。

しかし、善か悪かという判断は、お互いの立場、地域、或いは、時代によって大きく変わるものであり、普遍性はありません。だから、相手を絶対的悪と決めつけることで起きる戦争は、それ自身矛盾に満ちています。

ところで、日本古来の宗教は多神教であり、また、宗教観においても善悪をともに受け入れる資質を日本人は自然に育んできたのではないでしょうか。

先のワールドカップで日本人サポーターが日本チームの敗戦後、会場内の清掃に携わったということが報道され、世界の人々も感銘を受けたようですが、勝敗に関わらず、自分の志を持って行動するということは、日本人の心の一面を浮き彫りにしたように思います。私はこの志のバックボーンとして無駄を大切にする心を感じます。愚直に他人のために、自分にとっては無駄だと思うことをすることは勝ち負けを超えた独自の思想ともいえます。

それは勝負、或いは善と悪という2つの対立概念を超越した自由な状態です。但し、その行動の基本には、常に他人への思いやりの心があるのです。そしてその心があれば、仮に人から悪と批判されることであろうとも、胸を張って取り組めば良いのではないでしょうか。善悪という基準で問題を割り切るのではなく、その根っこに思いやりがあるかどうかが重要な事なのです。

被災地支援という活動は、一つ一つの物事どれも善悪で判断してはならない活動です。被災地での様々な事態は、その時々或いは被災した人ごとに、千差万別の事情があります。彼らが頑張ることを手放しに善と思い込まず、頑張らないからといって悪であると決めつけてはいけない。一方、こちらも自分達の活動が自己実現につながることを期待してはいけないし、ましてや、活動の理念を善などとは絶対に思ってはいけない。我々は、何事も善悪で見切らずに自分にとっての無駄を是とする志と思いやりの心を持ち続けることが継続支援への道だと思います。

平成26年8月8日
公益社団法人 東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤

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