公益活動を取り巻く環境と大震災の発生
私は、税理士という立場で数多くの経営の現場に携わってきましたが、その中で感じているのは、現在の日本は法人が公益活動を行うには極めて劣悪な環境にあるということです。例えば、公益社団法人・公益財団法人は、本来の活動である公益事業について収支相償という実に情けない枠組みが求められています。「利益を出しても損失を出してもいけない」ということは、組織として内部留保を蓄えることも許されず、人材確保の為の長期雇用を前提とする仕組みも作れないということであり、およそ視界のない未来へ進まなければならない状況を強いられているのです。

一方、民間法人は、その全活動が課税対象とされており、また利益追求の責任が大前提にあります。つまり、仮に公益活動を行っても利益が生じれば課税され、一方利益が出ないと見込まれる公益活動そのものについては考える余地すらありません。東日本大震災は、こうした社会環境の中で起きた災害です。政府・行政が停滞した中で、公益活動を地道に速やかに行ったのは、公益社団・財団を除けば、ボランティアやNPOなど個人及び個の集まりでした。

支援の継続こそ公益社団法人の役割
私は、医療支援のNPOの責任者として、震災の翌月に釜石・大船渡・陸前高田を廻り、非常用の防犯ライトと循環型の仮設トイレを市に寄贈しました。そうした中で、夏以降大槌町ともご縁ができ、大槌町にコミュニティー施設を建設することを決めました。そして、復興支援を単発でなく、長期的視野で行う必要を感じ、3つのK、雇用・教育・健康についての支援を柱に掲げる公益社団法人の設立を決意しました。公益活動の要諦は「継続」です。被災地の方々が、日常を取り戻す為には一家の働き手が職を得、子供たちが健全な教育を受ける場を整え、住民同士が豊かなコミュニケーションを通じて心身ともに元気を取り戻すことが何より重要です。その為の長期的な支援を続けていく体制として、信頼性・社会性を有し何より思いやりのある人々の和の集団として活動する仕組みを持てる、公益社団法人の設立が最適であると確信したからです。

コミュニティー施設を設けることにより、住民の方々がそこで暖を取り、語らう社交の場となることの他、他の支援団体の活動の場(例えば、2012年夏季は、NPOカタリバ様が高校生向けに行うパソコン海外スカイプ研修に開放)となったり、支援者と住民の情報交換の場にもなりました。また、鎌倉から、人気カレー店ゆうゆう庵に植山竜太郎シェフごと移住してもらい、原価ベース(@300円)で美味しいカレーを提供することにより、釜石・大船渡・山田・宮古などからも多くの方々がコミュニティー施設を訪れるきっかけとなり、コミュニケーションの広がりは更に情報の共有へとつながっています。

2013年が明けましたが、大槌町の津波被災地には、ほとんど建物はありません。本機構では、2013年2月2日から、大槌町に現在一軒もない焼きたてパンの店(モーモーハウス)を開店します。被災地支援に強い関心を持ち参加してくれた横浜のパン起業コンサルタント、岸本拓也氏のプロデュースでパンによる町おこしを展開させていきます。開業にあたり、お店を「誰もがそこに居たくなる暖かい場」にすることを最高理念と位置付けました。この活動は、被災地の支援という枠にとどまらず、岩手県に伝統的に息づくコッペパン文化を大槌町から発信し、事業として成立させて住民の方に引き継いでいくことが目標です。コッペパンを大槌町民には原価で提供するとともに、大槌町民を従業員として雇用し技術習得を目指してもらいます。オープン時には、この企画に賛同し、尽力してくれた全国有名パン店のシェフが一堂に集結し、得意のパンを焼きあげるパンカーニバルを実施します。

ところで、教育支援としては、2012年は被災地各地にアンケートを実施した結果を受け、陸前高田市・気仙沼市・南三陸町の全小中学校の生徒に修学旅行資金の一部を助成しました。2013年以降もこの活動は続けていきます。

事業による支援資金の捻出
さて、支援資金についてですが、寄付金を財源とすることに限界があることは明白です。もちろん、公益法人としての活動の制限はありますが、本機構では、自ら事業を行いその利益を全て被災地支援に投入するという取組みを始めています。今手掛けているのは、太陽光発電所建設についてのコーディネート業務です。事業者と施工業者・資金提供者を結び付け、財務・税務面での事業構築を担い、完成までの調整をします。

既に神奈川県初のメガソーラーの建設が進行中で、他に数件の案件を抱えています。なお、再生可能エネルギーの活用は、被災地においても最重要テーマであり、機構として培ったノウハウとパイプを生かして地元と連携し住宅全ての電力をソーラー発電で賄う太陽光都市の建設なども提案していく予定です。

無駄という意味を考える
ところで、私はここ数年「無駄をすること」の大切さを理念として過ごしております。こう申すと奇異に感じられる方も多いのですが、元来無駄という概念は主観に過ぎず、ある行為一つ一つが無駄であるかどうかの見極めは、見る人、感じる人によって全く異なります。日本においては、金銭の多寡が無駄かどうかの判断基準となっていることが多く、合理的・効率的にお金を使うことがそのまま真理のごとく、無駄でない事と決定されてしまいます。「税金の無駄遣い」などはまさにその典型ですが、さて本当に無駄かどうかの結論がどうして決められるのか、その根拠は全く分からないことも多いわけです。しかも、「合理的」という言葉は自分本位であり非常に曖昧です。先の原発事故や、笹子トンネルの事故なども、金銭をベースに合理的判断がされ無駄な事をしなかったつけが、表出したのではないのでしょうか。政治家は常套句のように無駄の排除を連呼しますが、私はその言葉の本質を疑う必要を感じます。例えば、やみくもに「無駄な公共投資反対」などと言い切る政治家の多くが、公共投資を無駄かどうか判断する正しい見識を持っているとは思えません。今の日本は効率的判断や合理主義という考え方が不自然なほど市民権を得ているようですが、結果的に客観的裏付けのないその人の思い込みだけで安易に無駄と言い切り、物事や人への対応を見切ることが多過ぎるのではないでしょうか。そんなことから、私は無駄という言葉をいつも身近に置いて、物を考えるようになってしまいました。

公益社団法人の公益活動について、人によっては無駄な事と断じられることもあるのではないかと思います。その視点から被災地における活動について、私の考え方を述べます。私たちがその活動において「被災された住民の為に」という強い使命感を持つことは、非常に危険です。「頑張ろう」とか「被災者に寄り添っていこう」という言葉も概念化されており、決して適切とも思えません。自己の側からの思考が色濃くなるからです。被災地の支援は、常に相手のある行動です。そして、そこに自己を中心とした合理的思考は不要です。「自分の行為は無駄でいい。相手のことを思いやる心さえあれば、そこで自分ができることをするだけ」です。観念的ですが、それが支援に対する私の思考の原点です。相手のことを思いやる為には、単発で何かをするという手法よりも、現地に根を下ろし、そこに住む人々とともにその日その時を一緒に感じることが大切であると思います。そうした中で信頼関係が生まれ、その延長線上に微力ながら確かな支援が結晶として生まれていくのではないでしょうか。

幸い、私の行う業務とそれに伴う環境は、様々な分野の事業家や文化団体・経営者との触れ合いの機会が多いものとなっています。そうした方々の持っている特性を生かして、新しい事業の投入や経営・文化のセミナーや相談会の開催なども少しずつ具体的に行い始めています。そして、支援に参加する人や法人の側から見れば、自分たちの活動が事業として成立していく形を作ることが息の長い支援につながることは当然の理です。

無駄をするという理念を持ちながら、有形・無形の経済的利益を得て成立する事業を目指すことは、誰かに対して行う「無駄」と「思いやり」とを同義語に理解している私にとって、何ら矛盾するものではありません。全ての事業は、思いやりの心から始まります。

平成25年1月13日
公益社団法人 東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤
(公益財団法人 公益法人協会 協会誌 平成25年3月号より転載)