平成30年9月12日、13日の両日、岡山県倉敷市真備町と小田郡矢掛町を訪問しました。以下、何人かの方からの水害直後の聞き取りと現状の報告です。なお、聞き取りは町中で支援に従事しているなど信頼できる方々からのものですが、こちらの聞き取りにおいて誤りなどがあることは否めないことをご了承ください。

【被害の状況】

豪雨による小田川の決壊で真備町の市街地はほとんど水没し、海のようになり、最も被害の大きいところでは2階家屋をすべて飲み込まれるという状態となりました。小学校2校、中学校2校、高校1校も浸水して、現在も生徒は他の学校で勉強されています。
中心地の箭田・有井が特に被害が甚大で、現在住民は避難所・みなし住宅・町外等に分かれ、生活しており、夜は町中から人がいなくなります。
避難所に登録することで義援金(1人40万円)は行政から支給されており、食料物資も定期的に配給されているようです。但し、登録せずに、自宅の2階に残っている人など支援を受けていない人もいる模様です。建物は、断熱材に泥が入り、修理しても建替えしても同程度の費用(いずれも2,000万円)が掛かる見込みとのことで、今そのことが住民にとって最大の課題となっています。
真備支所近くのボランティアセンターには、ボランティアの方が集まり、そこで指示を受けて、家々の掃除を中心に活動に行かれています。
真備町は一戸建てが多く、それらが全壊という状況です。現在、避難所は3ヵ所で約220人の方が避難生活を送っており、最も大きい岡田小学校体育館には110人の方がおられました。他に薗に40人、二万に70人います。更に、近くの真備荘という介護施設に介護の必要な40人の方がおられます。避難所では保健の専門家が毎日被災者の健康管理をされています。避難されている方々ですが、学生はスクールバスで町外の別の学校に通い、大人は個々に職場に行かれたり、自宅の清掃をされています。
避難所は当初2,000人もの人がこの体育館に詰め込まれ、冷房もなく、10日間はごろ寝という状況だったとのことです。また、近隣の総社市でアルミ工場の爆発もあり、体育館のガラスが何枚も割れるなど突発的な事故も続いたとのことです。
避難所の生活ですが、朝6時に起床。梅・昆布・鮭などおにぎり3個が支給され、昼は菓子パン・調理パンの2個が、夜は弁当が支給されます。他に避難所にいない方にも弁当を配っているとのことです。今は缶詰が少し付くこともあるようですが、民間からの食料支援は少ないとのことです。
おにぎり・パンは2カ月間全く同じ繰り返しであり、弁当も衛生上の見地から冷たくしたものがふるまわれるとのことで、食の不満はかなり大きくなっています。町内の飲食店も壊滅し、厨房もないので、炊き出しなども出来ないようです。開いているのはコンビニだけです。農業の方も機械がやられたことで多くの滞りがあるようです。避難所はシャワーのみで、風呂は1日2回バスで銭湯へ行きます。
今回の水害は、今年の秋から元々小田川の工事をする予定だった矢先に起きたとのことで、20年かけて工事の予定だったところを、今回の事態で向う5年で行うとのことです。
明治26年高梁川決壊、昭和47年小田川決壊と過去にも水害はあり、ハザードマップなどでかなり注意はしていたようですが、今回の規模は桁外れのものだったようです。夫婦だけの家はもう建て直し(再建)しないで、復興住宅に入ることも多いのではとの見通しのようです。市長は今避難している人が戻ってこられるように、現地で復興活動している人には頑張って欲しいと言っているそうです。
真備は岡田・箭田・薗・二万・呉妹・服部・川辺の7地区があり、それぞれ町づくり推進協議会を作っており、岡田の会長である黒瀬正典様にお忙しい中、いろいろお話を伺いました。明日は天皇陛下をお迎えするとのことです。
市街地を廻ると確かに一戸建ての新築家屋が全く人気のない中で整然と並んでいます。多くの家が1、2階とも窓を全開し、中の物は整理されているようでガランドウとなっています。駐車場の車は一面泥を被ったままものもありました。夕暮れ、小田川の広い土手の上の道からこの住宅街を見ると、どの家も暗い口を開けているようで、異様な感じを受けました。家が全く無くなった津波の被災地、閉じまりした家屋が続いた原発被災地とは人気のないことは共通するもののまた違った違和感、つまり、水害の恐ろしさを改めて感じました。
流れる川を見るとなんとのどかなと思われる美しい光景です。あんなにも下(高さ10m以上はあるでしょうか)を地味に流れている川が町を呑み込むなんて誰が予想するでしょうか。今回、最も強い衝撃を受けた時間です。
その日は、隣町の矢掛町に宿を取りましたが、この辺りは全く水害はありませんでした。過去に川が決壊した経験から早めに排水をするということが功を奏したようで、5m〜6mの高さの土手は残り70cmで治まったそうです。しかし、小田駅の付近の川は決壊し、その地域にある中川小学校は市内7校の内唯一浸水し、生徒は現在も他の学校に通っています。ただ、避難所に避難している人はいないとのことで、町民の生活は安寧が保たれたようです。
水害直後は一部店舗など浸水したところもあり、ボランティアの方も来られましたが、車に置いていた貴重品が盗まれるなど盗難が度々起きたとのことでした。
矢掛町は田が多く、水が早く引いたということも新興住宅地の真備と比べ、被害が少ない要因とのことでした。そして、小田川が決壊し、先に真備に流れたため矢掛町には来なかったことも大きかったようです。中川小学校は小田川のすぐ横にありますが、やはり今見ればあんなに低いところを流れている川が小学校の1階を丸々飲み込んだということは驚きしかありません。
児童の一時的な移動先の川面小学校に小田校長先生を尋ね、お話を伺いました。水害直後、校舎は大人の胸の高さ、体育館は背の高さまで水が入り、什器・備品・消耗品はすべて災害ゴミとなりました。細菌の蔓延も危惧され、すべて捨てました。8月10日までボランティアの方々が清掃をしてくれました。その1カ月はとにかく大変で、血圧もかなり高くなられようです。
被災を受けたのは中川小学校だけであり、まだプレハブも建てられない状況であり、(真備町は9月末に完成予定)児童の学力補償が懸念されます。3学期までに元の形に戻ることができるか、備品等の対処が間に合うかなども心配です。
今、スクールバスで生徒の送迎をしていますが、乗り降りなどのケアーを教職員が行っており、勤務負担は確実に増えています。また、土日など時間外勤務も多くなりましたが、給与補償も出来ない状況です。町では、教育支援員・事務員・教師アシスタントなどを増員で対処してくれていますが、全体的に町としても人手がいないことが心配です。被災した生徒の家は床下・床上合計5軒ほどあり、アパートを借りるなどされています。児童の心理状態も水害により受けた不安感・恐怖感がまだ継続している子も一定数いるとのことで、今後のケアーが大切と認識されています。
その後矢掛町の役場を訪ねたところ、全く静かなもので、来場者もほとんどおらず、昨日訪ねた真備町の役場での相談者で混雑している状況とは雲泥の差という感でした。災害被害の紙一重の重さを改めて感じました。
再び、真備の町に戻り、復興支援拠点の真備公民館岡田分館を訪ねるとボランティアセンターにもなっており、多くの方が業務をされていました。水や消耗品など物資の無償提供も行っており、ボランティア派遣のピースボート様は月曜日と木曜日には食料の提供もされているとのことでした。例えば、温かいご飯とみそ汁、漬物100人前が30分でなくなるなど、需要に追いつかないとのことで、毎日のパンの配給、時々の弁当の配給も沢山の人が並ぶことも多いようです。物資の配給をマネージメントする町づくり推進協議会の方々も、如何に公平にたくさんの方に上手に配るかいつも頭を悩ませておられます。
隣の地区の川辺は、町づくり協議会の幹部の方が被災してうまく機能できていない面もあり、そのサポートもしていきたいとのことでした。地域の中で、民間の方々の思いやりとエネルギーの強さを話に聞くにつけ、頼もしく感じました。
私たちは微力ではありますが、私たちの理念である「今必要なところに迅速な支援をお届けする」という思いを強く心に刻んで、真備町を後にしました。

平成30年9月16日
東日本大震災雇用・教育・健康支援機構
理事長 田中潤